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2011年4月

2011年4月30日 (土)

風光明媚な神戸・須磨にこんな源平ゆかりの地が・・・②

前回、源平にゆかりのある須磨をお伝えしましたが、今回はその続きになります。

***安徳宮(安徳帝内裏跡伝説地)***

須磨浦公園内東方を横切る道を北上し、山陽電車の線路をくぐると、そこには急な階段が。Photo244 Photo243_2 

その階段を、何とか登りきり、まっすぐまっすぐ歩いていくと突き当たりに安徳宮がある。

安徳宮、安徳天皇はご存知の方も多いと思うが、平清盛の娘、建礼門院徳子と高倉天皇との間に生まれた天皇だ。Photo236

この幼帝の悲話も有名で、壇ノ浦の戦いで平家滅亡とともに祖母に抱かれ入水したと伝えられている。

この地に、安徳天皇の冥福を祈り安徳宮が祀られている。

江戸時代には、松尾芭蕉もここを訪れているとか。

その隣には、龍神が祀られている。Photo241 Photo240

何故、安徳宮の隣に龍神が祀られているのかと言うと、安徳天皇が壇ノ浦で入水する際、祖母に「海の下にも都があります」と言われたそうだが、この都とは龍宮のことで、龍宮の主は龍神であることから、龍神は安徳天皇の守護神と伝えられているからだそうだ。(神社の案内より)

さらに、この敷地内には、明治時代アメリカ人に嫁ぎ、この付近の異人山に住んでいたモルガン・ユキが献納した灯篭、「モルガン灯篭」や、なぜか皇女和宮の像がある。

以上となります。

長々とお読みくださりありがとうございました☆

まだまだ、この付近にはいろいろな史蹟が多く残っているので、また機会がありましたらこのブログでお伝えいたしますので、どうかよろしくお願いいたします^^

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2011年4月20日 (水)

風光明媚な神戸・須磨にこんな源平ゆかりの地が・・・①

久しぶりに、今回も神戸の須磨へ行ったときのことをご紹介いたします。

ブログのタイトルが、「風光明媚な神戸・須磨にこんな源平ゆかりの地が・・・」となっていますが、昔この地で源平の戦いが繰り広げられたのだから、ゆかりの地があって当たり前ではあるのですが、私の中では神戸と言えば港町神戸というお洒落な外国チックなイメージが強く、歴史的にも大きな舞台となったことを、改めて知って行く中で、こんなにも有名な地だったんだ、教科書に出てきたあの歴史の舞台だったんだ、と少し驚きながら、この地を訪れました。

そんな感じで、簡単にしかお伝えできませんが、よかったら、お読みくださると嬉しいです。

***敦盛塚~源平史蹟戦の浜碑***

まず、山陽電鉄須磨浦公園駅の南の改札を出て、右のほうへ歩いていくと、駐車場がある。

その駐車場をぬけたところに「敦盛そば」という蕎麦屋さんがあるのだが、その東脇奥に敦盛塚がある。Photo251

あれ?敦盛塚って、どこかで聞いたような・・・・・

私のブログの前の須磨の記事を読んで下さった方に、以前にもどこかに敦盛塚があったことを覚えていてくださった方がいらっしゃるかも。

そう、須磨寺にも敦盛塚があるのだ。

どういうことかというと、須磨寺の敦盛塚には敦盛の首、ここの敦盛塚には胴体が納められているということらしい。

敦盛の悲しい話については、恐れ入りますが、過去のブログをお読みください。

そうして、敦盛塚に着いた後は、須磨浦公園駅方面へ引き返し、駅の前を通り過ぎまっすぐ歩いていくと、公園がある。

ここは須磨浦公園なのだが、ここでまさに源平の戦いのひとつ、一の谷の戦いが行われた。Photo247 Photo248

一の谷の戦いは、源平合戦の中でも源義経の「鵯越の逆落とし」で有名だ。

一の谷の背後にそびえる山、鵯越は、当時猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻であると言われており、その山を馬で越え、そこから一の谷へ続く崖を馬で駆け下り平家に奇襲をかけたといわれている。

(この崖は、鵯越そのものだったとか、平家物語のなかの創作という説もある。ちなみに、鵯越については、過去の兵庫区のブログで書いているのでよかったらお読みくださると嬉しいです^^)Photo245

そんな戦いのあった、須磨浦公園だが公園自体は緩やかな坂があるのみ。

しかし、山のほうを見ると急な勾配になっている。

ちなみに・・・と思いこの公園東側にある一の谷川を見に行ったら、何のことはない整備されたごくごく普通の川であった。Photo249

今回は以上です。

よかったら、この続きもお読みくださると嬉しいです☆

ありがとうございました。

◆別荘地としての須磨◆

須磨は、昔から風光明媚で温暖な地として知られており、平安時代には貴族の憧れの場所だったそうです。

明治以降は家族や財界人の洋館の大邸宅が並び、西の別荘地として有名だったとか。

明治天皇の武庫離宮もこの須磨の地にあった。

(ちなみにこの武庫離宮、今では公園となっている。ここには、光源氏のモデルといわれる在原行平が月見をした場所とされる、月見の松跡もある。)

さらに、須磨海浜公園には住友別邸、須磨寺近くには迎賓館として今も使われている西尾邸、須磨離宮植物園には、山崎豊子著、木村拓也氏が主演のドラマ『華麗なる一族』の万俵家のモデルともなった岡崎邸が残っている。

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2011年4月19日 (火)

娯楽として気軽に楽しめました☆映画『エアベンダー』

前ですが、借りてたDVD

エアベンダー

を観た。

確かラジー賞をとった映画だった気がする。S007

しかし、あまり深く考えず気楽に見ることができ、私的には楽しめた。

四大のそれぞれを操る様は、楽しい。

ファンタジー好きには、いいかもしれません。

私は、続きが見てみたいと思いました。

**あらすじと解説(goo映画より)**S008

かつて世界は、4つの王国-気、水、土、火-によって均衡を保っていた。

各国には、それぞれ4つのエレメントを操る能力を持つ“ベンダー”が存在し、彼ら“ベンダー” の中で、すべてをマスターした者が“アバター”と呼ばれていた。

その“アバター” によって世界の秩序は保たれ、人々は平和に暮らしていた。

火の王国が反乱を起こすまでは……。

世界に調和をもたらすことができる存在“アバター” になるべくこの世に生を受けた選ばれし者、それは、「気の王国」最後の生き残り、“エアベンダー” のアンだった。そして今、世界の命運をかけた壮大なトリロジーが始まる……。(作品資料より)

解説 - エアベンダーS009

「シックス・センス」、「ハプニング」のM・ナイト・シャマラン監督が贈るファンタジーアドベンチャー大作。気、水、火、土のエレメントを4つの王国が統治する世界で、戦乱に荒れる世を救う使命を託された少年の冒険を描く。出演は実際に格闘技経験を持つノア・リンガー、「スラムドッグ$ミリオネア」のデヴ・パテル。3D/2D同時公開。

あらすじ - エアベンダーS012

かつて、気、水、土、火の4つの王国により均衡を保っていた世界。それぞれの王国には気、水、土、火のエレメントを操ることができる“ベンダー”と呼ばれる者たちがいた。中でも、4つのエレメント全てを操り、世界に調和をもたらすことのできるベンダーは、“アバター”と呼ばれて崇められていた。アバターは4つの王国から順番に誕生することになっており、さらに、アバターになるためには多くの犠牲を払わなければならなかった。ある時、火の王国が反乱を起こし、世界の秩序は崩壊。100年に及ぶ戦乱の時代に突入する。アバターが誕生する予定になっていた気の王国は、火の王国の攻撃によって全滅。アバターになるための修行を重ねていた12歳のアン(ノア・リンガー)は、氷に閉じ込められてしまう。100年後。眠りから目覚めたアンは、水の王国のベンダーである少女カタラ(ニコラ・ペルツ)と兄のサカ(ジャクソン・ラスボーン)に出会い、一緒に世界に調和をもたらす宿命の旅に出ることになる。一方、世界征服を企む火の王国の王オザイ(クリフ・カーティス)は、心優しい王子ズーコ(デヴ・パテル)に、アンを捕らえてくるまで戻らぬようにと、命令を下す。水の王国で水の技の修行に励むアン、カタラ、サカの前に立ち塞がるズーコとその軍団。戦場と化したこの国で、王女ユエ(セイチェル・ガブリエル)はある壮絶な決意を固める。その頃、火の王国の侵略を受けつつある土の王国では、土のエレメントを操るアースベンダーたちが囚われの身となっていた。窮地を脱し、この地に辿り着いたアンの一行は、アースベンダーたちのその姿に“自分たちの力を信じて、ともに立ち上がり戦おう”と訴える……。果たして、アンは自らの過酷な運命を克服し、アバターとなって世界に再び安定と調和をもたらすことができるのか……?


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2011年4月18日 (月)

風光明媚で日本史や文学にも登場してきた須磨を歩く③須磨の海と神社

前日から、ご紹介してきた須磨ですが、ひとまずこの日についてお伝えするのは、今日が最後になります。

よかったらお読みくださいませ☆

***須磨の海***

綱敷天満宮をさらに南下すると、大きな道に出る。

その道を右折し、しばらく行ったら左手にある横断歩道を渡ると、踏み切りを超えて海に続く小さな道がある。

(ごめんなさい、詳しい行き方忘れましたが、道路から線路が見えると思います)

そうして、須磨の砂浜へ出て散策した。

犬の散歩や、マリンスポーツを楽しむ人がちらほら。

私は、西方のJR須磨駅のほうへ向かい歩いていった。

潮風が心地よい。

***三社大神宮***

そうして、しばらするとJR須磨駅の裏側に着くのだが、その西側に神社がある。

三社大神宮だ。

大神宮とはいうものの、ちょっとこじんまりとしたお社がある。

恵比寿神社、猿田彦神社、金比羅神社の三社が祀られている。

海の安全を守る、恵比寿神らしく海に面し、見守っている感じだ。

Photo223

少しでも海の事故がなくなるよう、お守りください・・・。

そう祈り、私は須磨を後にした。

。。。と、3回に渡り須磨を紹介してきましたが、ほかにも見所はたくさんありますので、また後日ご紹介いたします。

よかったらお付き合いくださいね^^

では、本当にお読みくださりありがとうございました^^

.・・・さらに山陽電鉄須磨寺駅近くには、こんなお寺も・・・

源氏寺(現光寺)

山陽電鉄須磨寺駅の西方に、現光寺、別名源氏寺というお寺があります。

このお寺は、源氏物語の光源氏の住居跡とされ、また古代の須磨の関跡でもあると言われています。Photo226 Photo228 Photo229

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2011年4月17日 (日)

風光明媚で日本史や文学にも登場してきた須磨を歩く②須磨の智慧の道

前回の続きで、神戸の須磨へ行った時の様子をご紹介いたします。

***須磨霊泉***

須磨寺を出て南へ歩いていくと、一番最初にある信号を左へ曲がるとすぐ足元に須磨の霊泉がある。Photo200

この水は、1938年の阪神大水害や、1995年の阪神・淡路大震災の時には、貴重な水源となり、多くの被災者を救ったことから「命の水」とも呼ばれている。

***平重衡(たいらのしげひら)とらわれの松跡***

須磨霊泉から信号のところへ戻り、南へ歩いていくと、山陽電鉄須磨寺駅に戻ってくる。

その駅の手前、というか同じ敷地内に平重衡(たいらのしげひら)とらわれの松跡がある。Photo202

平清盛の五男、平重衡(たいらのじげひら)が、源氏の軍勢を防ぎきれず、西方へ逃げたが生け捕りにされてしまった。

松の根に腰をおろし無念の涙を流す重衡(しげひら)を見た村人が、濁酒一杯差し上げたら、非常に喜んだそうだ。

それが、この地だったようだ。

***元宮長田神社・菅の井***

さらに、踏切を渡り、まっすぐ南下していくと大きな道に出る。

これは、旧西国街道なのだが、まずこの道の横断歩道を渡らず左へ曲がり歩くと、しばらくしたら神社が見えてくる。Photo204

この神社は、須磨の旧家、前田家が長田区の長田神社の氏子だった名残で建てられた神社なのだが、その脇にあった井戸は、菅原道真とゆかりのある井戸だ。Photo203

本当に菅原道真にゆかりのあるスポットは多い。

この井戸は、菅原道真公が左遷途中、前田家の井戸の水を汲んで差し上げると、多いに喜ばれたという「菅の井」という井戸で、敷地内にはほかに、「菅公手植えの松跡」もある。

(ただし、井戸自体は近年整備された感じだ)

***綱敷天満宮と諏訪神社***

元宮長田神社・菅の井から、元の信号のところへ戻り、横断歩道を渡ってさらにひたすら南下していく。

すると、右手に諏訪神社、左手に綱敷天満宮が見えてくる。

まず、右手の諏訪神社だが、ご祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)で大国主命の子供でもある。Photo207

この諏訪神社の諏訪がなまって、この地の名が須磨になったという一説も残っているそうだ。

次に、左手にある綱敷天満宮だが、ご祭神は天満宮という名前から菅原道真公というのは、すぐにおわかりいただけるかもしれない。Photo208

そして、この神社、私が参拝した時はちょうど梅が見ごろでとてもきれいだった。Photo209Photo210 

また、この神社も須磨寺のように面白いものがたくさんある。

たとえば、成功の波や、時代の荒波にうまく乗り幸せになることを祈る祈願像があったり、何でも願いがかなう茄子の腰掛、菅公母子像、「北海道」名付けの親である松浦武四郎氏納めた宝鏡、菅公とゆかりのあるたくさんの小さな牛の群れ像などなど。Photo211Photo212 Photo213Photo216 Photo214 Photo215 Photo218 Photo219

しかし、一番印象に残ったのは、やはり梅の美しさだ。

いい香りが漂っていた。

ところで、須磨寺から南へ南下し、この綱敷天満宮までの道を智慧の道というらしい。

須磨寺は弘法大師、綱敷天満宮は菅原道真という学問の神様をそれぞれおまつりしていて、その2箇所を結ぶ道であることからこの名が付いたそうだ。

よかったら、港町神戸の違った側面を楽しむ意味でも散策してみてはいかがだろう。

さて、次回この須磨を歩いた時の様子をご紹介するのは、この日に関しては最後になります。

しかも、ちょっとですが、よかったらお付き合いくださいませ^^

ありがとうございました。

   

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2011年4月16日 (土)

風光明媚で日本史や文学にも登場してきた須磨を歩く①ちょっと変わったお寺、須磨寺

今日は、ちょっと前の話ですが、神戸の須磨へ行ったので、須磨をご紹介いたします。

須磨は、源氏物語や源平の戦いなど、物語や歴史に多く登場し、明治維新以降は神戸港の発達とともに外国人の邸宅が並ぶ風光明媚な土地だったそうです。

そんな、須磨から本日ご紹介するのは、須磨寺です。

関西の方なら、知る人ぞ知る、ちょっと変わったお寺になります。

どう変わっているかと言うと、参拝を楽しむ要素がいっぱいなのです。

***須磨寺***

まず、場所は山陽電鉄「須磨寺」駅の東の道を、つきあたりまで、ぐんぐん北上していくとある。Photo174

そして、寺の奥へ進んでいくと、左手に源平の庭がある。Photo175

これは、この地で繰り広げられた、一の谷の合戦での平敦盛と熊谷直実の戦いを像で再現したもの。

この悲しい戦いの話は、次のとおりだ。

一の谷の戦いも、終わりに近づいた頃、源氏側の熊谷直実は、何とか手柄をたてようと思っていたところ、沖の船へ向かう、平家側の平敦盛を発見し、

「敵に後姿を見せて逃げるのは卑怯。戻れ」

と呼び止めた。

すると、敦盛が馬首を返し、一騎打ちに応じ戻ってきた。

直実が、あっという間に敦盛をねじ伏せ、かぶとをかげて見ると、直実の息子と同じくらいの若い武将だった。

しかし、敦盛は名乗らず、

「首を取れ、自分は名のある公達だ。首を取って手柄にせよ」

の一点張り。

一方、直実は同じ年くらいの子のいる自分には、この武将の父の悲しさもわかるため、逃がそうとしたが、味方の軍勢が来てしまい、泣く泣く首を取った。

そんな、悲しい歴史の一場面を再現した源平の庭の前をすすみ、左の坂を上って行くと、わらべじぞうぶじかえる七福神マニコロなどがある。Photo183 Photo176Photo177Photo178   

ぶじかえるは、驚きたいなら目を回し、借金をなくしたいなら、首を回すというもの。Photo179

七福神マニコロは、拝みながらマニコロをまわすといいらしい。Photo181Photo182

そして、本堂へ向かったのだが、本堂周辺に様々なものがある。

本堂の隣にある大師堂の、一願成就の大数珠や、かわいい(?)お地蔵さんの浄香、納経所のからくり時計などなど。

Photo185 Photo184_2

さらにさらに、神功皇后の竹や、ボタンを押していくと、メロディを奏でる「青葉の笛」変わった顔の狛犬のようなもの、敦盛の首を洗ったという池などがある。

ところで、「青葉の笛」とは、敦盛が直実との合戦の前日に奏でていた笛で、須磨寺の宝物館に納められている。

(この宝物館には源氏ゆかりの宝物が多数展示されているらしい)

Photo188 Photo189Photo197Photo199

それだけではなく、まだまだ変わったものがある。

本堂に向かい、左方面の坂を進んでいくと、三重塔があり、四国八十八箇所のお砂踏み参りができるのだが、各札所の砂を実際にガラス越しに踏むことができる。Photo190

さらにその奥には、頭をなでると手が動く五猿、かわいいきんぽとん童子石のこけし、あたまをなでるとメロディが流れるミーシャ熊敦盛(首)塚 がある。Photo195_2Photo196Photo193Photo194 Photo192

以上、須磨寺をご紹介してきたが、まだまだご紹介していない、見所(?)はあるので、興味をもたれた方は、よかったら参拝してみてはいかがでしょうか。

ところで、この須磨寺のあと、他にもまわったところがあるので、それについては次回ご紹介いたしますね。

お読みくださりありがとうございました。 

(参考:須磨寺HP,『須磨楽学』(須磨区区民まちづくり会議発刊))   

 

 

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