前回に引き続き、「清盛七辨天」をご紹介していきますが、今回は番外編も含みます。
番外編というのは、「清盛七辨天」うち、前々回分と前回分から数えて3番目、4番目は、「清盛七辨天」実行委員会にて番外編のような形で、弁天様ではなくそれぞれ平清盛、松王丸のゆかりの地があてられていますので、そのとおりご紹介いたしますね。
(つまり全部で9箇所ご紹介することとなります)
~~~~~③能福寺(平清盛)~~~~~
最澄(伝教大師)が唐留学の帰途、和田岬に上陸した際、ここに薬師如来(本尊・秘仏)を安置し、我国最初の教化霊場とした。
境内には、奈良、鎌倉に並ぶ日本三大仏のひとつ、兵庫大仏がある。
昭和19年の金属回収により国へ供出したが、関係者の努力により、平成3年に再建。
また、この寺は平清盛ゆかりの寺で、養和元年(1161年)に清盛が京都で没したおり、初代住職・円実法眼が清盛の遺言にのっとり、遺骨を経ヶ島に持ち帰り、この寺の法華堂に収められている。
が、遺骨の行方には諸説あり、所在地は確定されていない。
ほかにも、兵庫県人ゆかりの、史跡が寺の中にいくつかある。
過去にも、この寺の大仏についてブログで書いているのでよかったらご覧ください☆http://fortuna-angel.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-9c88.html
(ちなみに、この和田神社、兵庫七福神のうちの毘沙門天に該当する神社でもあります。
兵庫七福神・・・江戸時代、庶民の間でブームとなった七福神めぐり。福を呼ぶ神様、7箇所を巡礼することで、「七難即滅・七福即生(七つの災いから逃れ、7つの福徳が授かる)」と言われている。それが、この兵庫区でも巡礼できる)
~~~~~④来迎寺(松王丸)~~~~~
松王丸って誰?
と、思われた方もいらっしゃるだろう。
松王丸とは・・・・
平清盛が経ヶ島を築造する際、幾度かの暴風雨と大波に見舞われた大変な難工事だった。
清盛は旅人を人柱にし、海神の怒りをなだめようとしたが、17歳の松王丸が代わりに自分が人柱になると願い出て、経文を記した石と共に沈んだ。
寺の中には「松王小児入海」の碑と墓がある。
寺の中は、私が行ったときは夕方だったせいか、ひっそりとしていたが、きれいに手入れされている感じだった。
~~~~~⑤済鱗寺(べんきょうべんてん)~~~~~
明応2年(1493年)、真誉林光上人の開祖、「西連寺」と号していた。
海中より出現の阿弥陀如来仏像を本尊とし、魚類済度をあわせ行ったため、済鱗寺と改めた。
その後五百羅漢像を建立するも、95年の阪神大震災でお寺は全壊、現在は仮の本堂に阿弥陀如来仏像をお祀りしている。
私が行ったときも、一見普通の民家であったため、迷いかけたが、しっかり仮のお堂はあった。
そのお堂の中に、弁天様も鎮座されておりました。
よかったらご参拝くださいね☆
この付近の参拝スポットは、次の⑥恵林寺(うんどうべんてん)とこちら・・・
**七宮神社**
御祭神は大己貴命(おおなむちの みこと)で、南浜の和田神社に対し、兵庫北浜一体の産土神(うぶすながみ)。
平清盛が、兵庫築港(経ヶ島)の大工事を無事に終えるに当たって、感謝のため社殿を建立し、自筆の南無七大明神の神号をまつち、金幣を奉納したといわれる。
また、高田屋嘉兵衛が、所有船「辰悦丸」など模型船を奉納し会場安全を祈願したことから、多くの廻船業者がこれに習っていたが、戦災により模型船や古文書は消失してしまった。
(ここも平清盛ゆかりの神社ですね。神戸も源平ゆかりの史跡が満載です)
~~~~~⑥恵林寺(うんどうべんてん)~~~~~
貞和2年(1346年)錦江省文禅師により開山された臨済宗のお寺で、福原西国三十三ヶ所の第二十八番札所。
境内には、平清盛が築港(経ヶ島)築造の際に、困難や水難克服を祈願して立てられた弁財天社があり、「波除(なみよけ)の弁天」と呼ばれていた。
私が行ったときは、ひっそりとしていた。
(お寺は夕方に閉まってしまうので、早めにいかれることをお勧めいたします)
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